azucho's diary

読書メモや、育児記録、ワークライフバランスについてのあれこれなどを書いています。だだもれ系です。

祖母の存在とすき焼きと私の複雑な感情:過去との向き合い方

すき焼きにはろくな思い出が無い。

 

子どもの頃の冬休みは、父方の実家に帰省する習わしだったのだが、何が嫌って、

とにかく寒いこと、トイレが外であること(その後、家の中に移設された)、母が祖母や叔母に気を遣いまくって疲れていく様子を見ること(もちろん祖父や叔父にも母は気を遣うのだが、とにかく同性の親戚への気の遣いっぷりは尋常ではなかった、それは家事全般を女性が担うべきという田舎の風習のにおいとセットだったと思う)、出来の良いいとこ達のことを自慢するように見える・かわいがるように見える叔母および祖父母に対するしらけた感情(私たち三姉妹もかなり出来は良い方だったはずだが、自分の子らがかわいいという空気が当たり前のように漂っていて不快だった)、そして何となく不潔な感じがする家全体。布団を干すところから始めるが、ねずみも出てくる布団。嫌すぎる。滞在期間中はひたすら苦痛だった。

 

料理を教えたりもしていた祖母だが、年を取るとともに手が行き届かなくなり、何となく食器も汚れている。食事の前に洗うのだが、きれいになる気がしない。目をつむって食べるしかない、大晦日のすき焼き。よくわからないレシピ。その頃は父が「鍋奉行」的なことをまだやっていたような気がするが、それも本当はやりたくないのをイヤイヤやっているものだから空気が悪い。狭い居間のこたつの上で鍋をかき混ぜ、すき焼きを作る父。ずっと台所に立ったままの母。ドラえもんを観たいのに居間のテレビでは紅白が映されている。子どもだけで2階に上がることを許される年がたまにあり、その時だけは急な階段を必死に登って2階のテレビでドラえもんを観ていた。すき焼きが出来ると呼び戻されるわけだが。

 

まだ妹(料理好き・上手)は料理などの戦力にはなっていなかったように思う。何なら年上のいとこ達もさほど手伝いをしていなかった。せいぜい皿や箸を配る程度。野菜を切ったりといった仕事はひたすら母がやっていた。叔母はやっていない、実家に帰ってきた時くらいのんびりさせてよ的なオーラが漂っていたことを思い出す。じゃあ私の母は何なのか?女中?と感じて腹を立てていた記憶がある。でもそんなこと言えない。

 

いとこ達とは楽しい時間も過ごした。トランプしたり、近くの小さな山に登ったり、年始のお参りに行ったりもした。私よりも年上が二人、年下が一人。いい人達だったとは今も思うが、疎遠になったまま連絡を取りたくはない。

 

すき焼きの嫌なところは、レシピが漠然としていること。最初に何を炒めるのか、どういう順番で具材を入れるのか、漠然としているくせに、何かテキトーにやろうとすると誰かが怒る。そうじゃない、と言うならレシピを教えてくれ。

 

大体、鍋的なものを複数人で作るのも嫌だ。忘年会や職場の飲み会的なもので「鍋」を選択する人の気がしれない。誰かが主となって仕切らなければならないようなものを選択しないでほしい。第一、不特定多数の箸が行き交う(大体結局、直箸になる)のも不潔。コロナで廃れたのかなと思いきや、つい最近も仕事関係の飲み会で鍋がチョイスされていてゲンナリした。

 

すき焼きには私は麩を入れたい。だが麩は「汁を吸うから」と敬遠されがちである。でもあの汁を吸った麩がいいのに、と思いつつ、ダメだと言うならなんで皿に用意されているのだろうか、とずっと子ども心に思っていた。理不尽。直近の帰省のすき焼きでは、無いからと麩をわざわざ買いに行ったにもかかわらず、やはり「汁を吸うからまだダメ」と制される時間が長く、結局、ラスト近くに大量投入されることになり、もうおなかがいっぱいになってほとんど食べられなかった。理不尽。

 

すき焼き自体は好き。牛肉が好きと言うより、ラストの蕎麦が好き。でもすき焼き自体の味が濃いので喉がすごく渇く。大晦日ゆく年くる年を見ながら(当時、面白さは感じていなかった)ひたすらお水を飲んでいた。年越し蕎麦はすき焼きのラストの蕎麦で代替する。すき焼きは大晦日の味。年を越えて、遠くで花火が上がる音がして、そして寝る。とてもとても寒い布団にくるまって寝る。ねずみのことは考えないようにしていた。

 

今年は実家にて父が、母からすき焼きを作るよう促されて明確に「拒否」したので、鍋奉行は妹の夫氏がやってくれた。父の拒否の態度を見てまた怒る母、それももう見たくない。本当に何もしない父。加速する無気力。病気だから、とずっと言い続けてきたがしんどい。薬はもう飲んでいない。何が目指す姿なのかもわからない。数年前に私が「私は今すごく幸せだよ」と伝えたことは覚えているのだろうか。親になってしみじみと、子が幸せでいてくれることを幸せだと感じたから言葉にして伝えたわけだが、今はどう思っているんだろう。

 

母が義実家にて行くたびにひたすら家事をしていたこと、すごくすごく疲れていくのに気を遣うことは決してやめないこと、どんどん母が不機嫌になること、早く帰りたいと自分が代わりに思っていたようにも思う。皿を拭くくらいはもちろん手伝える、だが手が切れそうに冷たい水での皿洗いはずっと母がやっていたように思う。大きくなってからはそれもいとこのお姉ちゃんや妹達とやっていたが、なんで男達はやらないんだろう、と感じていた。

 

風呂も寒い。古いし、入ってもあたたまらない、かえって風邪をひきそう。そして風呂に入る順番も、母は最後でいいと言う。そんなんばっかりやん・・・

年に一度だから?日頃は離れているから?家事も母が全部やって当たり前?
叔父は何も言わない。叔母も知らんぷり。そういう人たちに何も言わない父も嫌だった。気付いてすらいなさそう。それでも父にとってはくつろげる実家だったんだろうか?それも怪しい。結局、父自身も足が遠のいたままだったわけだし。

 

さっさと行くのをやめれば良かったのに。
でもあれば帰らないわけにはいかないのが実家なのだろうか。(母にとっては義実家)
今、私自身が子ども達を連れて実家に帰ることを、子ども達はどう感じているんだろうか。いとこ達と遊ぶ時間を楽しんでいるように見える、おいしいものを食べて、あたたかいところで眠る、楽しい時間であってほしいと願う。

でも私も気を遣っている、実家なのに安らげない。行く前から疲れており、行ってみるとやはり実の母なのに何か嫌なことを言われたりされたりしてゲンナリしている。一刻も早く帰りたいと思いつつ、ひたすら皿を洗い、拭く。日頃はやらない料理だが、少しでも戦力になるようにと包丁を手にして野菜を切ったりもした。妹達との時間、オット氏達との時間、小さいいとこ達が大きくなっていく様子、などは楽しい。でも実家で疲れていく父母を見ていると、帰らない方がいいんじゃないのかとも思うし、何より私自身が疲れる。

 

罪悪感もある。実家なのに。居心地がいいと思えないことへの申し訳なさ、もっと寄りつかないと申し訳ないみたいな感覚。孫を連れていかないといけないのでは、私単独でももっと頻繁に訪ねておかねばならないのではという感覚。
父母ともに「孫大好き」タイプではなかったものの、連れて行けば連れて行ったなりの楽しさが双方(父母と孫)にあるのでは、などと考えてしまう。孫と遊ぶと、無気力な父も気力が湧かも?いやそれは関係なさそう・・・

まぁ考えてもどうしようもないのである。結局、今のやり方以外で出来ることはおそらく無い。これまでやってきたことが悪かったとかも無く、これからもその時々で判断しつつ行動を選択し、やっていくしかない。

なんかどうしても書いておきたくなってこれを一気に書いている。
父方の祖父の思い出はそもそも薄く、父方の祖母は思い出があっても特定の孫だけをかわいがっていたように感じて面白くない。料理など共通の出来事でつながり、なついていたのもその特定の孫なので仕方ないのだろう。私は無理である、料理も出来なかったし、やる気も無かった。家事などの「女の子は○○しなきゃ」という圧がそもそも嫌だった。祖母の当たり前は私の当たり前では無い、と思っていた。
そういえば「妹が生まれるから」と当時の我が家に祖母に手伝いに来てもらったことがあり、その時に「パジャマをたたまない」とかで怒られたことを覚えている。しつけが出来ていない、と思われたんだろうなぁ・・・と漠然と思ったし、自分を通じて母が叱られているようにも感じた。

 

父方の祖母は短歌を作る人であったが、私は俳句が好きである。これは母方の祖父の影響。
母方の祖父母のことはもっと濃い思い出があって、また別の機会に書きたい。

 

祖母はすごい人だったとは思うがやっぱり好きになれない。わざわざそう書きたくなるほど、いろいろ渦巻いている。もういないのに。