azucho's diary

読書メモや、育児記録、ワークライフバランスについてのあれこれなどを書いています。だだもれ系です。

夏は広島

夏は広島。夏休みは常に広島の祖父母の家で過ごした。母方の実家である。

 

三姉妹は小学生。夏休みの宿題と、自由研究と、ピアノの練習(同居している伯母が元音楽の先生で、ピアノを持ち込んでいた。グランドピアノとアップライトピアノの2台があった)が日課。合間に掃除をしたり家事を手伝ったり、祖母の話し相手をしたり。

 

朝はラジオ体操で始まる。たたき起こすのは伯父。元物理教師の伯父は、独特のユーモアを持っており、笑わせてくるのがすごく楽しかった。だがしかし、それは私たち姪っ子たちがたまに遊びに来るからこそ発揮されるものであり、日常の伯父が大体不機嫌そうだったことも覚えている。

 

身体が不自由な祖母。リウマチである。その在宅介護は主に祖父と伯父によって行われ、ただでさえ無口な祖父はますます無口であったが、祖母への愛情は子どもながらに常に感じていた。
祖父はガンコを絵に描いたような人で、旧国鉄でそれなりの役職の仕事をしていたはずだが上司と喧嘩して辞めたという経歴を持つ。本が好きで、祖父の本棚にはさまざまな書籍が並び、とてもワクワクした。俳句を詠む人で、ガリ版刷りの句集を作っていた。私は祖父の詠む俳句がとても好きだった。タバコと酒を愛す人でもあり、おつかいでタバコを買いに行かされた時にお釣りを間違えて帰ってきてこっぴどく叱られたことを思い出す。「蔵に入れるぞ!」が口癖で、大体が不機嫌で怒っていた。こわいじいちゃん。でも骨のある人なんだろうなと思ってたんだと思う。

 

朝イチのラジオ体操が終わると、廊下の拭き掃除をする。三姉妹で並んで雑巾がけをするのはゲームみたいで楽しかった。まだ小さないとこ達が食べこぼしをするので、食卓の床には新聞紙が敷かれており、それを取り替えたりもしていた。

 

掃除の後はピアノ練習。きっとその前に朝ご飯を食べていたと思うがそのあたりの記憶は薄い。
ピアノ練習は祖母に「こんなに上手になったよ」と定期的に聴かせることができる、という実感があった。

 

祖母はかつて広島市内で爆心地近くで原爆に被爆した経験を持つ。女学生だった。たまたまその瞬間に、おつかいで来ていた銀行の頑丈な石造りの建物の中にいたため無傷で助かった。だがその目で見たものは地獄なんてものでは表せなかったと思う。
被爆と直接関係は無いものの、おそらく若いころからの過労がたたって、老年期にリウマチを患う。手足が思うように動かなくなり、寝たきりの生活。食事の時は車いすに乗り込み(乗り移らせてもらって)食卓に向かうが、自分ではなかなかスプーンなどの操作ができず、介助が必要だった。トイレも同様で、簡易トイレをリビングに置いてすぐ対応できるようにしていた。

「情けないのぅ~」というのが祖母の口癖であった。自らの身体を思うように動かせないもどかしさ、介助してもらわざるを得ない身の置き所のなさ、それでも愚痴は言うまいとしていたように傍から見ていると感じていた。矜持のようなもの。静かな明るさを保っていた祖母。

被爆当時の話を聞きながら手足のマッサージをし、その内容を小学校の何かの作文に書いて、知事賞?的な何かをもらったことがある。夏休みに帰省するたびに、百人一首の練習や都道府県の名産物を覚える自由研究をするかたわらの孫たちにマッサージをしてもらうのが楽しみ、みたいな祖母だった。

夏休みの宿題はさっさと終わらせ、伯父伯母の蔵書である漫画を読むのも楽しみの一つだった。はだしのゲンエースをねらえ!ブラックジャック火の鳥ブッダアドルフに告ぐ、・・・
はだしのゲンは怖くて怖くて、読むと夜が眠れなくなり、窓ガラスに近付かないようにして布団の居場所を取り合いした。人間の弱さ、本質を学んだのははだしのゲンからだと思う。
火の鳥は自分でも揃えて家に置いている。どれも大好きだが、どれももの悲しさが漂う作品だなと子ども心に強く感じていた。
主に伯父の蔵書だったが、小学生の私たちにどんどん読めと開放してくれていたのは今思ってもありがたいことだ。

祖父は、タバコと酒のやりすぎで肺がんになった。入院もしたがほどなく死去。あんなに怖かった祖父だったのにあっさりな最期だった。私が中一の時だった。
本が好きで勉学の大切さも説いていた祖父。大学に進学したよ、と報告したかったな。

夏休みの滞在の最後には、広島のお好み焼きを近所のおばちゃんのお店で買ってきて、家で食べるのが習わしだった。一人ずつ、「そばか、うどんか、ダブル(両方)か」を聞いて回ってカウントする。伯父はダブル。めちゃくちゃボリューム大のやつになる。
私は必ずそばだった。イカ天が入っていて、本当においしかった。近所のおばちゃんのお店で、小さな小さなお店。電話で注文しておいて、取りに行く。家のリビングに宣伝の紙を敷いて(ソースがこぼれるから)、みんなでワイワイ言いながら食べる。あの「最終日の昼」の儀式、だいじだったんだなと改めて思う。おさんどんをメインでしてくれていた伯母にとっても、炊事から解放されるひとときである。

去年の春、伯父が急逝した。すい臓がんだった。急すぎて実感がわかない私たち。葬儀でも、まだきっとそのあたりにいるよ、と話していた。
夏には祖父母と伯父の墓参りを兼ねて、広島に一人旅をした。お好み焼きのおばちゃんのお店は閉まっていた。コロナ禍もあったもんな・・・変わりゆく街並み。
子どもの頃に遊んでいた、伯父がマラソンのトレーニングをしていた、公園は変わらずまだあった。タコの置物遊具も健在だった。
墓参りも、公園も、行く道を「足が覚えている」ことに感動した。そう、ここは私の第二の故郷。深くつながる場所。

長期休暇の思い出は、夏も冬もけっこうツラい。子どもながらにいろんな感情を受け取ってしまってつらかった。早く帰りたかった。冬ほどではないが、夏もつらかった。
自分自身の実家である広島は、実母にとっては安らげる場所だったのだろうか。今となってはわからない。

じぃちゃんにもばぁちゃんにもおじちゃんにも、元気だよと伝えたい。
俳句は私も好きだよ。カーチャン俳句として詠んだりもしてるよ。
キリッとしたばぁちゃんの立ち姿、原爆資料館の前での写真、好きだよ。
ラソン、おじちゃんみたいにストイックには出来てないけど、またぼちぼち走りたいと思ってるよ。

三姉妹それぞれの家を「家庭訪問」として訪ねて回ってくれたこと、なぜかアンコ缶を複数手土産に持ってきてくれたこと、おじちゃんらしいなぁと笑ったこと。
やっぱり行ってしまうには早かったなと思うけど、またそこから見ててね。